テニスにて

テニスコーチの視点からの解説

テニスコーチとして

相模原で起きた障害者殺傷事件、痛ましい事件でしたね。

犯人は「障害者は不要だ」みたいなこと言ってるらしいですね。

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実は僕にも重度障害を負った息子がいます。

先天性ではなく、1歳の頃にウィルス性の脳炎を患い、その後遺症で四肢不自由となり、言葉も話せません。

脳炎が治った後に、脳が萎縮して当時は本当に動かなくなり、表情もなくなり、どうなってしまうのだろうと不安でいっぱいでした。

しかし、養護学校でのリハビリやふれあい、家庭でも兄弟(2歳上の兄と4歳下の弟)がよく面倒を見てくれ、近所でも子供達が隔たりなく接してくれて、今では喜怒哀楽の表情が出てきたり、声を出すようになったり、関節も様々な動きができるようになり、進歩はとっても遅いのですが、少しずつ変化してきているのがわかります。

この子の、遅いながらも進歩成長していることが、僕のテニスコーチとしての考え方に強く影響をしています。

障害者っていうのは、この先何も身につかない人のことを指すのではない。何かを身につけるのが、障害があるために、遅い人のことを指すんだと思います。

そういう考えに至った時に、人間て皆、何がしかの障害者なんじゃないかって思うようになりました。算数が不得意な人は算数の障害者だし、掃除が苦手な人は掃除の障害者だし、テニスが上手じゃない人はテニスの障害者だし。

でも、それらの障害は勉強や訓練を重ねることで克服できます。進歩は遅いかもしれませんが、練習をすればたとえ1ミリでも必ず前に進んでいます。いわゆる重度障害のうちの息子も、リハビリを続けるうちに、短期的には目に見える進歩はなくても、15年経った今振り返ると、できることが増えたと実感します。

だから、僕はどんな生徒に対しても、上達を絶対にあきらめません。

僕自身も若い頃ははスポーツなんて才能がない奴はいくら練習しても無駄って思ってました。まさにテニスコーチとしての障害者です。

でも、その障害を補ってくれて、今でも道を示してくれているのが、重度障害を負った息子です。彼がいなかったら、テニスコーチとしての僕は存在しない。僕には彼が必要です。

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僕は思います。

多分、人間は、お互いの障害を補うようにしながら社会を形成し、生きながらえてきたのです。

不要な人間なんていません。